2021年4月12日(月)

読んだ本の話

健康保険医療制度

行政は健康保険の医療費削減を、病院からの保険請求に対して、個別指導という嫌がらせの手段によって行っている。請求書に何か疑問と称する案件があっての監察・指導は当然だが、規模に対する請求金額が高い順の指導とは、嫌がらせである。

 

医療費削減も、システム自体で何とかするものなのだが、今どきそんな正論とかリーダーシップで行政をつかさどる人はいない。よって現場最前線の役人が、上から押し付けられての対処をする。生活保護システムもおなじ。現場の役人も、組織の一員として、自分の生活がかかっているので、あまりものを考えずにやっている。

 

結果、現場で日々、下々の小競り合いが繰り広げられることとなる。

実際の個別指導とは、請求書の元となるカルテの記載事項とそれらに付随する添付書類の確認がメインとなる。例えば、

ここに薬品名は書いてあるが濃度%が書いていないとか、医師がひとりしかいない医院で医師名のサインが洩れているとか、枝葉末節の連発である。

診療記録の重要性は言うまでもない。医師として、どのような症状を認識し検査をしどのように診断をしてどのような処置を行ったかを、正確に書きとめるのは義務である。

 

それをふまえた上での、必要“以上”の記録作りをやらされることにより、日常の診察が、患者をいちべつしただけで、パソコンチャカチャカ診療になってしまっているのである。

 

論点のすり替えになるが、指導している役人とは、国会答弁をもしれっと書き直す、国会審議である書類提出を求められると見つかりませんでした破棄しましたと述べるひとたちである。

 

診療行為をカルテに記載すると難癖をつけられるので、行った診療を記載しなくなる。そうすると診療請求もなされないから医療費削減にはつながるが、実際に行われた診療が記載されない傾向というのも、ある意味恐いことである。

この指導の現場に役人と並んでもうひとり、指導医という医者が座る。行政は医者を指導するのは医者でなければと、さも敬意を表したようなことを言っているが、これも責任逃れ役人根性の一環。

 

役人から指名された指導医とは、医者が医者を指導するのだから大甘になりそうなものなのだが、なぜかそうはならない。戦争映画の中で、捕虜収容所で捕虜の中から班長の指名があったとする。この先の筋書きは二つ。捕虜を代表して毅然と看守に意見を申す勇者か、仲間を売ってお目こぼしやご褒美をという下賤か。当然この場合は後者。       まともな人間は技官も指導医もやらない。

 

医師会や学会など組織内の先生たちの中に、名誉を求めて活発に活動している先生がいる。それは全くかまわないのだが、いうまでもなく名誉ある役職や勲章を決めるのは役人。「できましたら諮問委員会の担当とか、お声をおかけいただけないでしょうか」。そんな中に技官や指導医というのも含まれるのである。

 

少し話は飛ぶが、どの組合組織にも、会員獲得という命題がある。医師会の会報には必ず、「個別指導は、不安でいっぱいでしたが、大変心強いお言葉をいただいて…」「私たち会が、全力を挙げてうまく収めておきました」という記事が挟みこまれる。会員獲得のための不安をあおって便乗商法は、あまり行儀のいいものではない。

 

あれやこれやとバタバタしているうちに、腹に一物を持った人たちの思惑が一致して、患者の“より良い診療のための”という本来の目的には関係なく、嫌がらせのシステムが出来上がってしまったのである。

役人主催の指導現場とは、輩(やから)たちの狩りの場となる。出世のため、名誉獲得のため、生活のため、すべて自分のことしか頭にない輩たちの業績のために、呼び出されることとなる。

 

市井の人々が、輩に絡まれてしまった場合、やみくもに頭を下げてその場をしのごうとしてはいけない。また、虚勢を張って対峙しようとするのもいただけない。 ずる賢い輩たちのリングに引きずり込まれて、勝ち目などない。まずはしっかりと防御を固め、傷は最小限に抑えて脱出する方法を考える。もしよほど腹に据えかねたのならば、リングの外にでてからの、手立てを考えるのである。

 

輩は自分より強いか弱いかを、即座に見抜く。自分より強いものには寄って行かないし、弱いとみたら際限なくむしり取る。そんな世界に身を置いていると、いつか自分もやられるかもという想像力もない。実際、たまに仲間内でも狩りあっている。

輩に対峙するときは“毅然”。彼らの持っていないものは“品格”。怖い怖いと思っていると寄ってくる。何かが起こったら、何が起ったかをちゃんと見据え状況を理解する、そんなところから始めよう。

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