●政治学者とか政治評論家と称する人たちの、新書本あたりで言ってることの理解ができない。これらの本はおおむね、近代の政治を検証し現政権の政策を解説する。そして今昔とも政策のほとんどを批判的な論調で締めくくる。テレビに出てくるコメンテーターもだいたい、現政権の悪口。
理解できないというのは、そもそも政治というものは、“国家の行く末を案じて…”という視点からは行われているものではないからである。政治とはすべて、その時の権力者のその場の、テイサイ・セケンテイ・メンツでおこわなれているものだからである。
「イマサラ、ヒッコメラレルカヨ」
政治学者が、異なった判断基準で行動している人を評価するのは、ピントがずれている。政治学者の方は何をもって正解としているのか、人口の増加とかGDPの伸び率とかを基準にしているのか、これもよくわからない。
さらに言うと、政治学者が正義の味方というのも違う。政治学者も自分の功績や収入の事情によっては、論文の結論が微妙に修正されたりもする。学者さんと政治家が目先の案件で、組むことだってある。
だからもうこのあたりは何が何だかの世界で、飼育ケースにカブトムシ100匹を飼っているみたいな、そんなところなのである。
●もう一つ似たような人たちに憲法学者というひともいる。憲法解釈なる言葉もある。しかしちょっとでも考えれば、”憲法の解釈”という単語自体がおかしいことがわかる。憲法に解釈を許すなら、為政者の縛りである憲法の役はなさない。順序を言うならばまずその行為を論議してその結論を憲法に反映する、これが道理である。
しかしこれは国際情勢の中で、のらりくらりとすべてわかってやっているのかもしれない。おじいさん先生が分厚い本を片手に神妙な顔してしゃべっているのも、やっとこの年になってこのポジションまできたのだ、もうちょっとここで飯を食わせてくれ。
●田崎さんなんてのも人から笑われ人を楽しませるという、太鼓持ちという芸人さん。テレビの政治番組や討論番組とは、心穏やかにのんきに見つめるものである。この世界に限らないことだが、人生とは理想を追い求めてと言ってるばかりでなく、時折のっぴきならない事情を優先したりもするのである。
政治にかかわれない下々なんてものは、世の中の風向きを感じ、自分の都合とあっていたなら追い風とすればいいし、向かい風ならば飛ばされぬよう身をひそめるだけのことである。ミンナ、タイヘンナンダヨ。


