
1)そもそもコロナという病
・コロナとは果たしてどうなんだろうか。
日常を連日の報道の中で送っていると、
だいたいの共通の認識というイメージは作られてくる。
ほとんどの人は研究者ではないので、
すべて人から人への見聞で成り立っている。
感染力の強さ、肺にまで達すると重篤、
ウィルスの形態は変異する、
このあたりまでは紛れもない事実としていいだろう。
それに対して、
ウィルスの起源、ワクチンの有効性、
ロックダウンの効果のほど
などというのは、いくらか眉唾なものとして感がなくもない。
・数年前には影も形もなかったウイルスにたいして、
突然ワクチンがでてきた。
それを「はい、これでだいじょぶです」と
そのまま鵜吞みにするのは、いささか疑問が残る。
数か月の実験結果はあっても、数年単位のデータはないのは事実だ。
効能に対しては、製薬会社の発表しかない。
感染者数が減ったのは、
ワクチンの効果か自然減少かの問いに対して、
誰もまじめに答えてはいない。
・ワクチンについての反対意見として、
本当に効果はあるのかというところはもちろんだが、
ワクチンを打つことによっての人間本来持つ免疫力の低下は大丈夫かとか、
接種前と後の人の死因病名のつけ方、
ワクチンの副作用らしき原因で死亡した人をフェアーに検証しているか
という意見など、
それなりの資料も添付されいくつかみることができる。
ちなみにこれらについての正式解答は、
歴史を経て発表されるものである。
2)コロナ禍において見える社会
・そもそもコロナになぜ疑心暗鬼とか眉唾という影がちらついてしまうのかというと、
世界中の為政者がこれをどう利用しようかと邪(よこしま)な魂胆を、
はっきりとわからせてしまっているからである。
純粋に医療として人の命を第一に考えていないということが、
情報伝達の発展であけすけになってしまっている。
・科学とは、実験研究をもって結論を導き出すのが筋である。
しかしある結論を出すために、それに沿った論文を探し出して、
辻褄をあわせてくるということは、現実としてある。
・諮問委員会や検討委員会に名を連ねている学者は、
自己の名誉や報酬から逆算して見解を述べる特技を持った輩である。
そのような特技を持たないと、選ばれない。
無邪気に白球を追っていた少年野球と、
野球で生活をしていくプロ野球選手の気の持ちようが違うのはいいのだが、
医学の研究者としては、最初の純粋な気持ちを
忘れられては困るところはある。
・ワクチンに対する反対意見も、ネットで探すと出てくる。
多少のあやしい雰囲気を持っているのは、
大本営との対抗だから、仕方ない。
いくらかの虚勢がないとつぶされる。
あやしいからといって、これらを反射的にスルーするのもよくない。
玉石石石混交の粗野な情報から、
使えるいち部分を探し出す訓練も必要である。
・日常において、
主流の美辞麗句に修飾された情報に対しては斜に構え、
反主流・反対意見の中で使えそうなそうな部分を拾い集め、
最後はこれらを、自分の知識と感で意見の再構築をするのである。
この手間をもって、教養というものになっていく。
3)そして自己による判断
・そして、身も蓋もない結論になるが、
まあ、どんな努力をしてもしなくても、
高い地位やたくさんの金を持っていようがいまいが、
どんなポジションに立っていてもいなくても、
判断の正解率にそれほど変わりはない(ような気がする。)
・高度な教育を受けそれなりの情報をも持ちえた人たちが論議して下した判断が、
すべて正しかったとならないことからもわかる。
あの巨大な東芝やシャープが潰れ、国策銀行が他国に乗っ取られたりしたのはつい最近の話である。
・それでも、
常に世情に興味を持ち情報には耳を傾け考えるという行為はしておいたほういいような気がする。
なんとなく。
4)追伸。そんな中での、やはり報道
・我々に報道という形になって届くたものは、
すべて、政権の維持、忖度に見られる経済活動、
末は報道関係者の生活にいたるまでの、
数多くの人々の意図が入ってから届く。
しばしば、国民の正義とはかけはなれたりもする。
・報道の強さはずば抜けている。
先の戦争であれほど大本営発表に痛い目にあわされたのに、
やはり報道によって作られる世論というもので世間は動く。
誰が悪いかどうかではなく、人間の性である。
理性として、報道の強さや怖さを肝に銘じておかねばならない。
