“病気”と“寿命”は、
ほぼ同義語のように使われていますが、
これらは、似て非なるものです。
これを、携帯電話の
“電池”と“故障”の関係に例えてみます。
「病気とは故障」のことで、
「寿命とは電池残量」のことです。
そういわれてみると、
ちょっと違うものだと思いません?
「人間の体」も「携帯」も、
ちょっとぐらい調子悪くても、
電池が残っていれば、何とか使っている、
というのが現実です。
人間の体は、
自然治癒力は望めますが、
部品交換という手はありません。
携帯と決定的に違うのは、何かあったとしても、
“だましだまし何とか使っていく”
ということです。
携帯も修理代が高ければ、
多少の不具合も、
だましだまし使っていくこともよくありますよね(笑。
何もかも、程度問題の話ですけど。
病院に行ってみて、早期発見・早期治療で
ああよかったという場合もあるのですが、
最近、テレビやマスコミを見ていると、
それらがすこし“度が過ぎていて”、
“不安をあおり気味の営業”
と感じる場合が多くあります。
そんなのを毎日見せられて、
神経質にこだわりすぎるようになったり、
病院に行かないことが罪悪感につながったりして、
なんだかんだ余計なところで、
「疲れてきてしまってる」傾向に
あるようにも思えます。
(私もたまに見ちゃって、不安になったりするのは日常です。
「偶然を装って、神様が何か教えてくれているのか」なんてね)
本来、病気は、
「油断することなく神経質にならず」に、
が、正しい付き合い方で、
そこのところの兼ね合いも難しいところでもあるのですが、
テレビを見ていると、
「煽る(あおる)」方の圧力が強いように思えます。
健康な時に、気の合う近所のお医者さんを探しておいて、
“いつでも気軽に立ち寄る”なんてスタンスが理想かな
とも思っています。
そして、もし、
治療を要するような病名がついてしまったならば、
まずは、
痛みや機能障害などの、
日常生活での不快感や不自由を、
取り除く方法の模索を考えます。
そして次には
それが放っておくと
進行していくかどうかを観察して、
していくようならば、
その進行具合の確認をします。
そこまでを確認したところで、
今後の方針をゆっくり考える
ということをされたらいいと思います。
その場で結論を出すということは、
あおられて決断を迫られることとなります。
電池残量の方は、
技術の進歩で、携帯の充電残は、
精度よく表示されていますが、
人間の寿命残量にいたっては、
これから先もおそらくわからないままでしょう。
「寿命もわかったらいいのになあ」
と冗談交じりに軽口ででてきますが、
本当に「教えてあげる」と言われたら、
断る人が大半なのではないでしょうか(笑。
寿命はもう考えても仕方のないことだということと、
体は、常に完璧を求めるのではなくて、
日常で痛くなくそこそこ使えていたらいいじゃんかと
立ち位置をもう一段階低くすると、毎日が楽になります。
・・・と、自分に言い聞かせています(笑。
