1、昭和の歴史の授業
昭和40年ころの歴史の授業は、明治のおじいちゃんがまだご健在の時代でしたので、
「明治維新=正義」の教育がなされていました。
別に「明治維新が善か悪だったか」という気はまったくないのですが、そのようなバイアスがかかった教育であったことは間違いありませんでした。
今の時代となっては聞きませんが、このころはまだ「末裔(まつえい)」という言葉も生きていました。
政界の重鎮たちはそんな講釈を受けてきた人たちでしたし、また反対に、「あの時代に割を食った」という話を聞かされて育った子孫たちもいました。
そして太平洋戦争もまだいくらか引きずっていましたから、結果として歴史の授業は、明治維新から終戦まではアンタッチャブル、「徳川家康が江戸幕府を開きました」で終わっていました。
(都合の悪いことは、大人の事情)
2、歴史というものの観点
いうまでもなく人にはみな、それぞれ立場というものがあります。
歴史だけの話でもないのですが、世間というものを口にするときは、あくまでも「自分からの視点として」という言葉を頭につけることは、忘れてはなりません。
・たとえば桶狭間の戦い。
下剋上の勝者である信長が、主人公の歴史小説は数多くあります。信長は揺るぎのないスーパースターです。よって娯楽小説の定番として、敵対の今川のお殿様はしばしボンクラお殿様として描かれるので常でした。しかしそんな中でも、
「こげな若造相手、ここで威厳を踏まえた戦いをせねば、他の大名に示しがつかんのじゃ。」
という今川氏の小説もあります。それまでの彼の経緯をたどると合理的な戦略家であり、実際に国土を広げかつ運営をつかさどっていたのも事実です。
・民族の違いからもあります。
誰の話か忘れましたが、アフリカのサファリツアーでライオンがシマウマを追いかけている場面に遭遇したそうです。
そのとき日本人の著者は「シマウマさん、逃げて!」と思ったそうで私もそうとしか思わなかったのですが、同乗の白人たちはうまく捕らえたときに喝采の拍手だったそうです。
人はみな、あくまでも自分の立場の目線でしか語れないことは、気にとめておいておかなければなりません。「正義」という言葉の難しさです。
「正義の反対は悪でなく、相手の正義」というウンチクのあるお言葉は、2チャンネルからです。

3、そして「明治維新」
よって以下は、私のつたなく無責任な立ち位置での講釈と相成ります。
私の記憶が確かなら小学校時代、当時の常識として、
「明治維新を境に、この日から現代であり、それまでは昔です」というニュアンスで教えられました。
教室の黒板の上に張られていた長い年表には、時代ごとに「縄文時代→→江戸時代」と書かれており、明治維新からは「現代」と書かれていた気がします。
司馬遼太郎の小説で「日本の夜明けぞよ」というセリフもありましたしね。(武田鉄矢か?)

明治維新の物語は国内騒動の話であり、登場人物は同じ文化を持つ人たちばかりでわかりやすいので、数えきれないほど多く語られています。
どっちの視点からもどんな立場からも、もう十分に語りつくされているでしょう。
しかしそれとは別に、世界の中の日本という視点もあるはずなのですが、なぜかあまり触れられて来なかった気がします。なぜなのかはわかりません。いろいろと触れられたくないことも出てきてしまうからでしょうか。
明治維新の時、
世界はその少し前から動き始めていました。
明治維新というクーデーターは、その勢いを借りて進行していったものです。
日本だけからの視線の「あの日を境に」という観念は、なにか違和感を覚えます。
明治維新が、江戸幕府のマンネリ化、硬直し機能不全に陥っただけの要因だとしたら、この大きな変動にはならなかったでしょう。
4、明治維新、少し前の世界情勢
古代からずっと社会は、「王様と農奴」と「武力」の単純な構図でした。
「国」に必要な物は、「王様と家来」「農地と農民」「兵隊(傭兵)」の三種類です。これらの人間たちで、社会・国家は成り立っていました。
もちろん「知的で温和で友好的で民主的で平和的に」ではありません。大前提として野蛮な暴力が真ん中にありました。(これは今でも変わりません)
そこに、1800年の初頭。
この±10年くらいの時に、今日まで続く近代の夜明けが起きました。
発端はフランス革命とイギリスの産業革命です。
フランス革命は、大衆の意志がまとまれば力になるという発見であり、産業革命は、石炭を使えば機械に任せられるという発明でした。
ほぼ似たような時期の起きたこの二つをきっかけに、この時から地球全域としての世界が動き始めました。
(ちなみにペリー来航は1853年です。)
この時の日本は、まだ嵐の前の静けさで、時代劇で見るような典型的な江戸時代です。
大塩平八郎の乱とか天保の大飢饉とかの江戸時代っぽい、(当事者以外は)のんきで平和な時代です。
この時は12代将軍・徳川家斉、彼の子供は53人です。かれも老後は院政を敷いていつの時代も変わらない政権抗争を、わちゃわちゃやっていました。
歴史に「もし」は野暮ですが、ペリーが、平安時代や信長の時代にやってきた可能性だってありました。
ちょっとずれて大塩平八郎の乱の時にやってきていたら、彼が坂本龍馬の役を担って、登場人物もがらっと変わっていたことでしょう。













